生きるためにお金を使う

払戻金を臨時収入だと思っているみんな~~~!

は~~~~~~~~い!(・∀・)/

精神的自殺では、とか書いていたくせにお金が戻って来たら速攻でグッズや円盤(DVD・Blu-ray)やコラボカフェで溶かしに行くヘビ子です。

そのことについて、特に何も考えずにただ「グッズが欲しいから」「円盤で見たいから」という欲求のまま消費を繰り返しているわけですが……

とはいえこれまでにない状況の中、今まではあまり表面化しなかった問題がここ数か月でよく出ます。

例えば、私は冒頭でも言っているように戻って来たお金は速攻で別の用途に注ぎ込んでしまいます。
実際ほかの用事で使ってしまうはずだったお金です。
それなら後回しにしていた欲しいものリストを順に買ったり、無くなってしまった行こうとしていた舞台関連で他のアプローチで貢ごう、という挙動をするのですが……

こちらのツイートを読んで普通に「えっ」と声を出してしまいました。

そんな考え頭に最初から無かったからです。

しみじみと、自分と他人は考えが違うのだよなあ、と思ったものです。
お金の使い方で人間性が分かるといいますが、こういうところでそりが合わないと関係の継続が難しいのは友人・恋人・家族関係でも結構身に覚えがある人が多いのではないでしょうか。

しかし、最初は「わかるわかる、私も使っちゃう派www」と草を生やしておりましたが、時代はコロナ禍。

いかに自分が平和ボケしていたのかハッとした記事を目にしました。

「日常」が安定しているからこその「非日常」が存在する

通称増田(はてな匿名ダイアリーの英語表記である「アノニ“マスダ”イアリー(Anonymous Diary)」)で書かれた「日常が壊れてしまった人の内情」

https://anond.hatelabo.jp/20200417133341

読むのめんどくさい、三行!という人のために掻い摘んで書くと、

・払戻金の申請を行わず興行元の足しになれば、とそのままにしていたしグッズも買いまくった
・しかしコロナ禍の影響で給料が激減、まだ平気だったころに散財した分がカード請求としてのしかかる
・結局払い戻しはした。しかし先を思うと不安である、生活が破綻した。

乱暴ですが大体こんな感じです。

私はこれを読んでぎくりとして、同時に自分の恵まれた環境を思いました。

幸い、このコロナ禍においても職を失わず、毎月滞りなくお給料を頂いている身なので当然切羽詰まりません。

しかし、生活を脅かされていたらどうでしょうか? とあまり考えたくないことを考えると口をつぐんでしまうでしょう。

趣味は心の栄養、無ければ死んでしまう、というのも本当だと思います。
実際そうです。
私にとっては生きる理由といっても過言ではありません。

けれどそれは、生命の危機が無いからこそ通用する言葉でもあるのだと感じました。

生きる、ということが安定しているからこそ、私はよそ見が出来るし趣味にお金を使い、「このコロナの影響で存続の危機です! どうか寄付を!」というクラウドファンディングにお金を入れることが出来ます。
払戻金を臨時収入だと思って遠慮なく使うことが出来ます。

けれどふと冷静になって考えてみると、この「増田」の体験は、対岸の火事ではなく、いつどうなるかなんて本当に誰にも分からないのだと改めて心に刻み付けられることになりました。

だって未来なんて誰にも分からないものだから。

ある日突然、足元が掬われるような体験はやってくるものです。それがいいものでも悪いものでも。
そう気づいたから私はぎくりとしたのです。
日常は当たり前ではなく、何かが滞ればいとも簡単に崩れ去ってしまうものなのだと。

だからただ貯金をするだけではない道を探ろうと思ったきっかけになったのが、この増田だったのです。

備えあればうれしいな

とはいえ、あまりにも真剣に将来への備えや「もしも」の時の保険について考えすぎても疲れてしまいます。

未来への備えだって大事だし、考えることも大事だけど、今現在だって大事です。
今がないと未来が無いし、同様に大事にするべきものです。

だから今、消費をして楽しい心を感じて自分の機嫌を取って、気を良くすることが出来たら未来のことをいっちょ考えてみるか、という余裕が生まれるはずなのです。

タイトルにしたのは本来のことわざの「備えあれば憂いなし」の言い換えで出回っているものですが、そのくらいちょっと肩の力を抜いて考えるのがいいのかな、というのが私のスタンスです。

買うことは正義なのか、悪なのか

というわけで、調子に乗って消費を繰り返しているのですが、冒頭で紹介したような思考でいるので、うっかり使いすぎたとしても

「でも友達と遊びに行くはずだった分を使ったと思えば±ゼロどころか少なく済んでいるのでは?」

とか

「行けるはずだった公演で、うっかり現場でグッズを衝動的に買っていたはずなのでその分を思えばむしろ使ってない」

とかいう思考になり

普段よりグッズ通販が多くなったのでした。

しかし、こういうことをツイッターでつぶやいたりするのも今はなかなか難しいと感じてしまう場面が増えました。

いつの間にか「お金を出すことこそがジャンルへの愛の証」「お金を出せないファンはファンではない」かのような風潮が出回っているのです。

好きだから集めていたはずなのに、もっと出さないと駄目なのかな、と周りの状況に流されて、あるいは「散財マウント取ってんの? ふざけんなよこっちはもっと積むから」と奮起する。

別に本人が納得しているなら悪いことではないし、他人が口をはさむなんて野暮の極みだけど、「お金を出すのが当たり前であるという風潮がスタンダード」になることは止めないといけないのではないかと個人的には感じます。

今はネット上で、すぐに分かってしまうのです。

「あの人は自分よりもお金を使っている」
「あの人は自分よりもたくさんグッズを買っている」
「あの人は自分よりも多く舞台に通っている」

そして、上記のことを「これが当たり前」として話している人しかいないと気づいた時。

その事実だけで「ああ、自分はそこまで出来ない。だからファンじゃないんだな」と去ってしまったり、途中までは追いかけても、追いかけることに疲れてしまって好きだったはずの作品のことすら見られなくなってしまう……

作品が悪いのではなく、「界隈の空気で最低ラインが高く設定されてしまっている」ことに躊躇してしまうのです。

これはどんなに悲しいことだろう。

作品の内容によって「解釈違いです!!!!!!!!!!!!!」と離れるよりはるかに不幸なことだと私は思います。

その作品を楽しみたいのに、全然別のことで台無しにされるのってない……でも、身に覚えがある。
作品はいいけど、ファンの人が怖いな……というのは、残念ながら目に余るとそちらに注意が行ってしまうのです。

それを思うと、なかなか自分が苦労して揃えたグッズ一式の画像をアップすることをためらってしまうことが一度や二度ではなくありました。

「無意識に周りに圧力を与えていないか?」

「スタンダードなことだと言って回っていないか?」

自意識過剰では?と感じるかもしれませんがそういう生き物なのです。

しかしそれだとジャンルが盛り上がってないと思われて新規を呼べない……というどうしようもない思考ループを抱えてしまいます。

いや、公式が見ているかどうかなんてあまり分からないのだけど……一番いい方法は直接お問い合わせ窓口にポジティブな意見を送ることだけれど……

このことについて、私はまだちゃんとした答えを出せていません。

でも、楽しみたいという気持ちはもちろんあるし、今住んでいるジャンルを移動すればまた違ってくるのだとは思いますが、しかし、難しい話と思います。勝手に感じているだけなのですが。

払った「対価」で得られるものは何か

前のセクションでまるで消費を悪の様に言っているように受け取れる箇所もあるけれどそんなことは無いんです。
ただ、お金を払って何かを買うっていうことに付随する「意味」が大きくなっている部分があるのだなあと考えることが増えたというお話です。

でも、思うことがあります。

そもそも、「何かを買う」という行動って得られるものは対価を払って手にした「商品」だけでしょうか?

答えはノー。

私たちは知っているはずです。得られるものってそれだけじゃないということを。

運命的に出会ったバッグを買った時、手に入るのはバッグだけではなく、そのバッグを見つけた時の胸の高鳴り、手にして鏡に映る姿を見てときめき、値札を見て考えるけれど、どうしても気になってしまって、すごくすごく悩んで、それでも欲しい!と心が叫んで、そして店員のお姉さんに「これください!」と言ってお会計をし、「ありがとうございました」という言葉とともに、ついさっきまでお店の商品だったものが自分のものになる一連の体験。

ライブやコンサートで、開始前のざわざわしている会場で、「あ、隣にいるこの人も同じようにこのアーティストが好きなんだな」という空気を肌で感じ、日常生活ではまず耳にしないコアな語り合いを全然知らない人が話しているのが耳に飛び込んできて、それが分かる自分になんだか嬉しくなって、そうしたらふ、とライトが消えてどんどんと胸を叩かれるような高揚が遠くからやってくる。パッとはじけるような眩しいライトに照らされて、いつもは遠く遠く、画面の向こう側にしか存在しないアーティストが同じ空気を吸っていることに妙な心地を抱く。そんな、体験。

某クレジットカードのCMじゃないけれど、お金で買えないものを私たちはそうして受け取っているのです。

もちろん、今あげたようなポジティブな体験ばかりでもなく、お金を払った現場で悔しい思いや悲しい思いもする。

1の動作の結果は1ではなく10だったり100だったり、はたまた0.5だったりする。

それが果ては物を売ることへの「付加価値」の付け方に関わってくる。

その部分が、「お金を払うこと」への満足感をどれだけ引き出せるのかの理由なのでしょう。

でも、それが人生の糧になったり、思いもよらないところで帰ってきたりする。

そうやって思考を広げていくと、消費一つをとっても無限に広がって行ってしまう。

だからこそ、今消費する、ということに対して滞っているところがあるのが、どれだけ恐ろしいことなのかも考えてしまう。

私の考えることすらできないほどの危機があると思う。
だけど出来ることは自分の好きなものがなくならないようにと出来る限りは細々とお金を出していきたい、という小さなものだ。

でも無いよりはいいよね、と自分を慰めながら今も私は自分の「好き」を細々と支えている。
支えになっているかは分からないけれど、未来の自分のために、未来も、「好き」なものが続くように。

だから私は、消費する。
浪費とも呼べるだろうけれど、自分の未来を守るひとつの術が、お金を出すことなのだと思う。

とても様々な意味で、私は生きるためにお金を使う。

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