すっかり秋めいてきました。
くしゃみが出るような風が吹き、せかすように衣替えを促してきます。
気が付いたら金木犀はその香りをふんわりと部屋へ届け、雨に降られて夢のように消えていってしまい、もう少ししたら紅葉が見られるでしょう。季節が早足。
のんびりと冬に移り変わっていくだろう空を眺める時間は果たして訪れるかしら。
部屋で引きこもって漫画読んで過ごして終わりそうな気がするヘビ子です。ごきげんよう。
そうやって何度も何度も季節を繰り返していると、あっという間に年を重ねていて、以前はあまり出会わない現象に出会うことも増えました。
それが、自分の知っている著名人の死です。
子供のころ、母がテレビで芸能人の○○が死去、享年何歳、というニュースを見ていた時に「えー!」と驚いていたのを私は不思議に思っていました。
それは自分が知らない人の亡くなったという知らせだったから。なぜ驚いているのか分からなかった。有名な人が亡くなったんだな、とただその事実のみが子供の頃の私に残るだけでした。
ところが、今はもうほとんどのそういったニュースで「えー!あの人が亡くなったの!?」と驚くことの方が増えました。
生きて来た年数の分だけ、画面の向こう側や本の向こう側に知っている人が増えたからです。
そして、つい昨日も。
漫画家のさいとうたかを氏が84歳で死去されたことが報じられました。
そのニュースを見た時に「えっ」と驚いたのです。
そんなビッグネームの死は、衝撃として走って行きます。
さいとうたかを氏の作品というとやはりゴルゴ13。
私は学生の頃に父が買っていたビッグコミック本誌で読んでいたのでその記憶が一番おおきいでしょう。
今年の7月には201巻という巻数でギネス記録にも登録されていた作品の、生みの親。その死。
ひとつの時代が終わったといっても過言ではないひとの死が訪れました。
そして、漫画家や小説家など、作品の作り手が亡くなるニュースを目にするたびに思うことがある。
「あの漫画(小説)、先生が死ぬ前に完結しますように!」
という読者の願いである…………!
今年、あのベルセルクの作者である三浦建太郎氏が亡くなった。
ファンたちはその死を悼んだ。
作者の死は、作品の死、またはある意味では永遠の命を持ってしまう。
終わることがなく終わってしまったその姿は、永遠に終わることがないから、見方を変えれば永遠の命と言ってもいいんじゃないだろうかと、そう思って。
この世界には、「頼む!!最後まで描き切ってその終わりを読ませてくれ!!」と切望する作品に溢れている。
まだ作者が若いから、といっても油断は出来ない。
連載途中で病に倒れ、そのまま儚くなってしまうひともいた。
「そこで!?」という部分で、永遠に続きが読めなくなってしまうのは読者もそうであるし、きっと作者本人にとっても無念であることには変わりないはずだ。
魂を削って作ったものを、描き切ることが人生だと思っていた人もきっといただろうから。そうであってほしいという私の祈りでもあるけれど。
ある種ネタにされているものもあるが、長期連載で休載を挟みながらもまだ完結に至っていない作品などは「作者の寿命が尽きるのが先か、自分の寿命が尽きるのが先か」というものまである。
たとえばガラスの仮面。
往年の人気作で、ドジで取り柄のない少女がひとたび舞台に上がる時、役者としての才能を開花させていく漫画だ。
連載開始当時は少女であったひとも今は立派に老年期にちかく、作者だって70代。いつどうにかなってもおかしくないと思わせる年齢の数字に涙だって流しそうになる。
実際に、「私の母は続きをたのしみにしながら亡くなりました」という声もある。
お願いなので、どうか最後まで読ませてくださいと言うしか出来ないが果たして完結するのかどうか、未だ謎のままである。
先ほどは作者が死ぬと作品も続きを永遠に読めなくなる、と言ったが一部例外もある。
それこそ、先のさいとうたかを氏のゴルゴ13は、早くから漫画制作を分業化し作品の制作にあたっていたそうで、私はこのことを一連の報道で初めて知った。それを知ったのも、ゴルゴ13が連載を継続するという話からだ。
それは作者自身の遺志を継いだもので、ある意味でゴルゴ13は本当に不死身になってしまった。
他にも、これはラノベの例であるけれど、「ゼロの使い魔」という作品は作者が若くして病に倒れ完結する前に残念なことに亡くなってしまった。
けれど最終章までのプロット(ストーリーの要約、今後の展開などを大まかに記したもの)があり、それをもとにして別の執筆者により続きが描かれ、完結した。
もちろん賛否両論あったけれど、ここでふと、どうしても、どうしても考えてしまうことがある。
このゼロの使い魔の場合、果たして「ほんとうの続き」と言えるのだろうか、ということ。
もちろん、用意されたプロットは作者本人によって書かれたものだ。
終わり方、これまで広げた風呂敷の閉じ方は書かれていたのだろう。
――けれども。
別の誰かの手で書かれた文章は、「ほんとうの続き」なんだろうか。
たとえば、ファンのひとりが「こうだったらいいのになあ」を形にしたものであったなら素直によんでこういう流れもあったかもしれないね、と言えたかもしれないが、公式から出されたとしても、プロットは作者本人が書いたものでも、「心の納得」はどこにもないんじゃないのか。
もちろん、このゼロの使い魔の続刊までには作者の死より2年が経ってからの表明となったし、編集部や各関係者の横暴さがその続刊を促したことではない、という事実は重々承知している。ちょっと考えただけでも非難を浴びることが容易に分かる地雷だ。扱いが慎重になるのは当たり前といえるだろう。
それでも続きを出したのは、作者本人の希望と、ファンの続きを望む声と、遺族の希望があったからだった、というのも、知っている。
だけど、だけど、だけど。
こうして書いている時点で、私は納得していないのは丸わかりだ。
根幹の部分が作者が書いたものだとして、出力方法は人によって違うと思ってしまっている。
だから「ほんとうの続き」が無いと感じてしまっている。
どれだけ作者が生前に準備をしていたものが下地になっていたとしても。
それでも、形になったものは作者自身の手ではないと思ってしまっている。
まだ、先ほどあげたゴルゴ13は以前から分業制を取り入れて作者本人がいなくとも機能するように出来ていることが以前から分かっている状態であれば、また少しは違うのかもしれない。
それでも、生みの親が死んだとき、やはり作品は死に、同時に永遠の命を持つような気がしてならない。
最後まで描き切って、完結した物語が永遠になるのとはやはり、違うのだと感じてしまう。
それはひとりひとりの感じ方の問題であって、正解は各々の中にしかないのかもしれないけれど。
それ以前に、打ち切りという悲しい結末もあるにはあるしね……!
生きているうちに、どれだけの物語を読めるだろう。
願わくば、全部完結まで読み切れますように。
漫画家よ、いやすべての連載を抱える作家よ。
どうか死ぬ前にその連載を完結させてくれ……!
だけど同時に、身体を労わってくれ……!
ここまで書いておいてなんですが、読者というのは本当に身勝手で、傲慢な立ち位置なのだなと思った。
それでも、だって!
私は、続きが読みたい!!
作家が考えうる、最終回を見届けるまで!!!
デザイナー。趣味は博物館ぶらつき、演劇鑑賞。各種遠征もするタイプ。
ここ数年で息をするようにグッズを買う癖がついてしまった。