生き切る

息子の寝顔を見て「カワイイ」と感じるのは、いったいいつまでなのだろう?と、ふと気になったりなんかしたりしてる川村です。

先日、我が家の愛犬が18年の生涯を全うして旅立ちました。

こういった話題を書くべきか悩みましたが、生に向き合う貴重な経験を提供してくれた愛犬の為にも、今の心境を残しておこうと思います。なので自分宛だね。今回は。

自分宛のメモみたいなものだから、脈略もクソもない文章とも呼べない走り書きになることをご了承ください。

人の心と伝え方

正直、愛犬の件はくらってます。

頭では「クヨクヨするな!やるべき事をやれ!」と理解しているし自身へ指示を出しているはずなのに全く心に響かない。どうしようもなくやる気が起きない。

無理やり最低限のことをこなしているような状態である。

近年ペットの平均寿命が伸びているという話を聞いたことがあるが、それはきっとペットとの関わり方が変わったからだと思う。家族として迎える人が増えた結果、生活環境の改善や医療、健康維持への努力により寿命が伸びたのだろう。

つまり「家族」として考えている人が多いのだ。

僕もその1人。奥さんの連れ子だった為、親的な心境とは違うけれど、兄弟的な感覚で接していたのだと思う。

だからこそ、公に他界したことを伝えにくい気持ちがあった。今のこのメモもしかり。

人によっては「そんなに動揺することか?やるべき事くらいちゃんとやれよ!」と思う人もいるだろう。特にペットを飼った事のない人からすれば、所詮は犬畜生の世界かも知れない。

だけど僕にとっては紛れもない家族の一員だったのだ。

だからこそこれを公にすることで、上記のような言葉を聞く事が耐えられなかったし、ストレートに言わなくても雰囲気で感じるものがあるだろうから、それを感じ取るのも嫌だった。

それを感じた時点で、きっと僕はその人と心の距離をとってしまう。頭では「気持ちが分からないのだから仕方ない」と分かっていても。

そういう二次被害を避ける意味でも、公言せずに察してもらうように努めてきた。

そんで気付いたんだよね。今まできっと何度も何度も人をそういう気持ちにさせて来たのだろうなと。

「なんで”そんな事”が〇〇〇なの?」という言葉を使った事が何度あるだろうか。

僕からすれば「そんな事」であっても、言われた相手からすれば「大きな事」だった事が何度あるだろうか。

事象に対する受け止め方は人それぞれである。それこそ「そんな事」は誰だって分かってる。だけど本当に理解していたか?と言えば出来ていなかった。

今後は出来る限り「相手にとって」を今まで以上に意識して接していこうと思います。

それをちゃんと気付かせてくれたという意味で、今回の件も意味があったのだろうと無理やり納得する理由にしようと、自己中心的な考え方で着地させることにした。

人生には終わりが来る

当たり前の話だ。だけど意識している人は少ないと思う。僕もそうだ。

40歳をむかえる年だった2020年に入ってから、人生の後半について考える機会が増えた。

それまでは「どう生きるか?」を考えていたのが、「どう死ぬか?」を考えるようになった。

調べてみるとそういう人は多いらしい。行き過ぎるとミッドライフクライシス(要は中年鬱?)とかいう謎な病気的なものに発展するケースもあるらしい。

自身の心境の変化を強く感じるようになって1年半が経った今、こうして家族同様だった愛犬の死に触れた事で、より強く意識している自分がいる。

人の生とは有限である。

そんな当たり前のことさえ、強く意識していないと忘れてしまう時がある。

有限だからこそ無駄にできない。

自分の人生は自分のモノだ。だからこそしっかり描き切らないと確実に後悔すると再認識できた。

生き切る

自分の人生を生きる。

今まで自分としてはそれなりに「人の為」に生きてきた節があると思ってる。他己評価は知らないけれど、あくまで自分としては。

そのウェイトをもう少し「自分」に向けてみようと思う。

今回、愛犬にとっては母であろう奥さんの腕の中で、苦しまず本当に安らかに眠りにつくように逝った彼を見て、大切な人の存在がより大きくなった。大切な人が周りにいることがいかに幸せなことなのかと。

それは家族だったり友達だったり仲間だったり色々だけれど、そういう大切な人達をより大切にしていきたいなと。

それは一見すると、「自分の為に生きる事」と「大切な人を大切にしたい事」は相反するように捉えられるかも知れないけれど、この両者の先にある道は1本だと信じたい。

自分のしたい事・・・例えばそれが「家族と遊ぶこと」だった場合、結果的に「家族の為」になる可能性もある。要はそういう事だ。

今はまだ自分のしたい事がぼんやりしているし、その中には私利私欲にまみれた事もある。

だけど、その私利私欲にまみれた事でさえも、自分がやりたい事ならやってみたい。それをやり切った先には、大切な何かの為になる結果が得られると信じて。

今までもそれなりに努力してきた自信はあるし、無駄に生きてなんかなかったと思っているけれど、これからは今まで以上に1分1秒を大切に生きて行こうと思う。

どうせならただ生きていくのではなく、どう死ぬかでもなく、生き切ってやろうと思います。

やるだけやっても消化しきれないくらいやりたい事を見つけて、その結果「全部できずに後悔する」なら万々歳。

後悔とは少し違うかも知れないけど、全てはできない程のやりたい事を見つけ、それが消化できなかった未練は残るけど、やるだけやったと満足できれば良いなということですね。

しかし・・・・・改めて読み返してみるとただのポエムでウケる。笑

これを公開するのは正直かなり恥ずかしいので躊躇するけれど、メモを残そうと思った事を後で後悔するのもアレなので、このまま公開します。

ここに来て「ウケる」事が出来ているのなら、ちゃんと前を向けているという事だから今はそれでよしとします。

ちなみにだけど、ペットロス症候群という病気もあるらしい。簡易検査的なものを見つけたのだけど、そこには「死後5日経過しても立ち直っていない人は要注意」とか「悲しみでやる気がでない人は要注意」とか書かれていたのだけど・・・

たかが5日で完全に立ち直る方が稀じゃないの?
てか、悲しみの中でもやる気満々な奴なんかいんのか??

という疑問がふつふつと湧いてきて、多くの人が感じるであろう事を「それを感じたら病気の疑いあり」という流れでクロージングする手法はどうかと思う(うまいとは思うけど)・・・なんてマーケ的な視点でしか見れない自分の性(さが)にも、ちょっぴりウケたのでした。

ちゃんちゃん。